このブログの目的
ア、人間は生きるに値する尊い存在
私はこのブログで、人間はどんなひとも、本質的に生きるに値する意味深く尊い存在であるということを、今日シュタイナー教育で知られるR.シュタイナーの思想をベースに述べたいと思っています。
「どんなひとも、本質的に生きるに値する意味深く尊い存在である」などといきなり断定的にいわれても、と鼻白み冷笑されるかもしれません。人間の現実の姿は利己的な側面を持ち、さまざまな欠点や醜さも見られ、状況次第では犯罪に走る場合さえあるからです。多少の善意が見られるとしても全体としては矛盾を抱えた存在であって、人間の誰もが尊い存在などとはとても思いがたいことです。また生きるに値するといっても、現実にはとてつもなく不幸な人生を生きているひとも少なくないわけで、例を上げれば難病や重度の障害を抱えて苦しんでる人、深刻ないじめに遭って生きる気力を失いかけている人、あるいは特殊状況下で余命幾ばくもないと知って恐怖におののいている人たちです。そうした人たちにとっては、生きることが苦悩そのものであるに違いないのです。
しかし、そうした紛れもない人間の醜い矛盾した姿や不幸な人生があるのを認めながらも、シュタイナーの思想(精神科学・人智学)を前提にするなら、すべての人間の本来的な姿は尊く希望に満ちたものであり、しかるべき過程を経た後に必ずその本来の尊さを現すようになるというのです。
ところで、ここに言う「しかるべき過程」とは、正気を疑われるかもしれませんが「幾度となく生まれ変わる人生」を意味しており、シュタイナーの思想によれば、実はその生まれ変わるたびの人生経験から学ぶ過程こそが、人間を本来の姿に近づける不可欠の要素だというのです。つまり幾たびか経験される人生は、人間として本来あるべき尊いありように接近するための修行の場だというわけです。そして同時にシュタイナー思想の注目すべきところは、その意味で人間に秘められた可能性の開花をできるだけ回り道をせずに実現する方法について明らかにしていることです。すなわちこの人生(現世)において、意識的にその開花を促進させる方法があるとしている点であり、それが叡智に満ちた説得力ある内容(人智学)として公開されているのです。
私は、この現代人の「常識」からみれば一見荒唐無稽に思われる思想の理解を深める中で、この人間認識が、個人と人類の未来を真に希望あるものとするためにどれほど意義深く重要なものかを確信するようになりました。決して信じるというあやふやなレベルにおいてではなく、とうてい軽視することの許されない確固とした根拠が示されていると理解できたのです。それゆえ、その根拠をできるだけ論理的かつ実証的に表現することが、いまの自分に与えられた使命であると思うようになりました。それでその使命を果たすべく、本ブログを通して、その根拠を順次開陳しよう思っているのです。
こう述べたところで、つぎのような様々な疑問が生ずるかもしれません。たとえ人間が本来的に意味深く尊い存在であるとしても、現在の苦悩に満ちた否定的状況に生きるものにとって、この状況改善に結びつかないかぎり、そうしたことはどうでもよいことになりはしないかと。それに、そもそも現実には尊さなどみじんも感じられない利己的な生き方をする人や、秋葉原で無差別殺人を起こした加藤某のように、他人を意味なく殺傷するなど社会に甚大な被害と恐怖を与え、自己破滅的に生きる危険な者もいるではないかと。それらは人間本来の尊さの観点からどうとらえたらよいのか、などといったことです。
しかしそうした疑問についても、シュタイナー思想は答えを見いだせるものになっているように思います。前者の疑問については、人間本来の姿を自覚するに応じて、その否定的な状況を改善するたしかな力が得られるはずですし、また後者の救いなき姿にこそシュタイナーの精神科学は根本的な光を当てるものになっています。すなわち一般的にいうなら、今日の未発達な人類の進化段階において人々は、誰でもときに自己を見失い、とんでもない罪を犯す可能性がありうること、言い換えれば誰でもこころ(魂)に様々な醜い面を持ち合わせていて、何らかの罪を犯さない人はいないにもかかわらず、そういう私たちであっても、もし幾度もの転生を経て未来に実現するはずの希望ある人間のあり方(実相)を知っていたとしたら、醜悪な行為に走ったり、罪を犯さずに済んだのであり、またたとえ大きな罪を犯してしまった人(たとえば死刑囚)の場合でも、それを知ることで、絶望せずにこころ(魂)の向上と自己の置かれた状況の改善に向けて、日々を真剣に生きることが可能になるからです。また他のどんな悲観的な状況にあるひとの場合でも、希望を失うことなく前向きに生きる気力が生じるのではないかと思うからです。
イ、人間は物心両面からなる存在
ところで、人間はごくおおざっぱに言って肉体とこころ(精神)という、性質を異にする二つの要素が合わさった存在だということができます(この点についてはシュタイナーは三分説を唱えていて、三つの要素、すなわち人間は肉体と心〈魂〉と精神〈霊性〉から成り立つとしています。詳しくは後にふれることになります)。一つの要素である肉体は自然法則のもとにある物質素材と生命力に支えられており、他方のこころ(精神)は、精神世界の法則のもとに存在しているというのが私のシュタイナー思想理解の一つです。つまり肉体には物理化学の法則と生命の働きが貫いており、こころの世界には精神世界の法則が貫いています。こころの世界は非物質的な意味や価値の世界であり、そこでは愛や憎しみ、喜びや悲しみなど喜怒哀楽の感情が息づき、美しさや醜さ、善悪の道徳的判断基準などがベースになって、その人独自の意味づけられた内的世界が形成されています。そのようなこころの世界は物理化学の法則とは全く無縁です。すなわち、そのような意味や感情の世界に物理化学の法則が直接かかわり合うことはありえないからです。(もちろん唯物論および近代自然科学の立場は、物理化学の法則がこころ〈意味世界〉をも生み出しているとしており、それがいかに誤っているかの根拠を示すのも、本ブログが取り組む主要課題の一つであります)。したがって、人間とは大まかな言い方が許されるなら、身体(物質素材+生命)と、そのひと独自のこころ(精神)の世界の二領域を合わせ持つ存在ということができます。人間とはその二領域に生命の妙なる働きが相互に浸透することで成立している、物心両面からなる存在ということになるのです(詳しいシュタイナーの人間観については、本論の後半でふれることになります。)
ウ、自由に生きる可能性と責任
以上のことを踏まえると、次のことが重要になります。この地上では、人間のみが精神的存在として自由に生きる可能性を持っていますが(他の動物の場合にはほとんど本能に拘束されているため、自由がありません)、まさにその自由のゆえに人間は、精神世界を貫く諸法則(たとえば道徳の法則や霊的因果の法則)があるにもかかわらず、多かれ少なかれそれを無視した生き方もできてしまうのです。そして実際に私たちはモラルにもとる行為に走る場合も少なくないのですが、自由にもとづく行為には当然ながら責任が伴うわけで、いずれ適切な時期と状況において後始末をつけざるをえないということになります。
もちろん、ここで言っている責任とは、市民社会における法律上の責任、あるいは社会的責任とは別の、精神世界に特有の厳密な法則(精神的〈霊的〉因果の法則、調和の法則等)のもとに、カルマを形成することによって責任を果たさざるをえなくなるということを意味します。(〔注〕カルマとは運命の法則で、この世の原因を前世の自己の行為に求め、来世の原因を今世の自己の行為に求めるもの。)この部分は、この時点ではなかなか理解しがたいものであることを承知の上で言っています。)
またその関連でいえば、自分の人生のとりわけスタートの部分(人生の基盤・土台、すなわち生まれ落ちる境遇や容姿の善し悪し、さらには、さまざまな才能の因子に恵まれているかいないかなど)は、過去世における前向きで献身的な、あるいは身勝手で退廃的なふるまいの、生き方の積み重ねの結果として築かれたものということができます。当然ながら人生途上に生じる予期せぬ大きな病気や事故、あるいは予期せぬ喜ばしき出来事も過去世に由来するものであるということになります。こうした考え方が受け入れられるなら、一見人生に生起する不平等で不合理と思えるものも、あるいはとうてい受け入れがたいと思える矛盾や不条理な境涯についても、自らに起因する何らかの理由があってのことと受け止めることを可能にします。それと同時にそのことは、現状にめげず前向きに生きることでよき未来を招来しうることにもなり、生きる気力を鼓舞することを可能にします。
しかしもちろん、単純に(人智学的な理解を経ずに)このようなカルマによる転生を前提にした場合には、人々を「前世からの因果」による身動きならない宿命論に陥らせ、不幸な境遇にある場合には生きる意欲を失わせることにもなりかねません。あるいは他人の不幸な境遇を「自業自得」といったとらえ方に陥らせ、そうした人たちへ救いの手をさしのべようとする善意や愛の意志を弱めさせないともかぎりません。さらにそれ以上に問題なのは、過去の時代にまかり通ってきたような、ときの権力者による専制支配に使われたり、大衆操作の手段として悪用される危険性を持つことです。シュタイナーの唱えるカルマや転生は、そのような弊害を許してしまうような単純かつ稚拙なものでないことだけは、ここではっきりと述べておきたいと思います。シュタイナー思想には、こうした問題を乗り越える賢明な道筋が用意されています。それは、シュタイナーが何よりも人間の可能性として持つ自由をこの上なく重視し(「我々は自由である限りにおいてのみ人間なのである」〈シュタイナー著『自由の哲学』〉)と述べ、人間があらゆる状況下において主体的かつ自由に生きる努力を通して理想に叶う在りようを限りなく実現していこうとする存在だとしているからです。この点からいってもシュタイナーのいうカルマや転生が、人間の本性とされる自由に制約を加えるようなものでないのはいうまでもありません。詳しくは後半でふれることになります。
しかし、いずれにしましてもこうした認識は、一般の通念を大きく超えたところがあり、だれもが容易にうなずけるものでないのは承知しています。でもあらかじめ知っていただきたいのは、シュタイナーはカルマの法則を自然科学の因果の法則と同ぐらいに厳密なものとして論じているところからいって、自然科学研究者であり精神科学者である彼にとっては自明の理であったのです。もしそれが論理的、かつ実証的?にも否定できないものであるとすれば、だれもそれに無関心ではいられなくなるはずです。まさにその観点から、本ブログはシュタイナーの言うカルマや転生の概要と、それらに関連する諸現象にもふれ、その真相に迫るつもりです。
このことに関して私が強く思うのは、世界に存在するいくつかの国の独裁者の無法な姿です。彼らがどれほど多くの人々を不幸に陥れているかはかりしれません。もし彼らがシュタイナーの説く精神科学的事実を知るなら、肝を潰すほどの恐怖を覚えるはずで、即刻生き方の大転換をはからないではいられないはずです。独裁者に限らずすべての非人道的、非道徳的行為を平然と繰り返している人たちに、もしブレーキをかけるものがあるとしたら、このシュタイナーの説く「精神科学(霊学)」を於いて他にはないのではないかとさえ思うくらいです。
エ、論述展開のあらまし
さて、もしカルマと転生という現代の常識にとってありえない事象に人々の関心が向けられるとしたら、それはなんと言ってもまずは人間が肉体のみの存在ではなく、肉体とは別の、肉体から独立した精神的要素と融合した存在である、という事実に気づく場合です。それには人間が肉体の消滅によって尽きるとはどうしても思えない現象に、すなわち肉体の誕生と消滅を超える精神の実在を否定できない現象(事象)に向き合うことが一つ、もう一つはこの世の人間の在りように徹底して論理的に向き合うことで、人間がけっして物理化学の法則に還元しきれるようなものではないこと、すなわち少なくとも論理的には現代の常識である唯物論的人間観に大きな疑問を抱かざるをえなくなることです。
そこで以後の論述を、まずはじめに筆者がなぜシュタイナー思想に信頼を置くのかその理由にふれ、それに続く第一章から第三章において、後者の唯物論的人間観、唯物論的思考の問題点を徹底して取り上げ、その本質的な問題点を具体的に明らかにするつもりです。その後の章においては、前者の「肉体の誕生と消滅を超えて一貫する精神実体」を取り上げ、できる限り否定できない実験的事実や体験的事象を踏まえつつ、論理的・実証的に事柄の実態に迫ろうと思っています。それらの後に、シュタイナーの認識論にふれ、最終章として「人生の課題(存在の根源からの発想)」と題して、カルマ論を踏まえた人生の法則性と、人生を生きる意義について述べる予定です。
次に続く記事
もくじ(上巻)
はじめに
このブログの目的
ア、人間は生きるに値する尊い存在
イ、人間は物心(精神)両面からなる存在
ウ、自由に生きる可能性と責任
エ、論述展開のあらまし
シュタイナー思想を大事に思う理由
前提となる三つの作業
第一章 唯物論の思考枠を超えて
―脳科学、免疫学、生命化学の隘路―
偶然と長い時間
唯物論的自然科学の限界
本質を異にする二つの自然
科学者の虚ろな思考
脳科学者の場合
ハード・プロブレム
日本の科学者たちの考え方
茂木健一郎氏の場合
心の中の表象は自分が直接知っている
心と脳に関するシュタイナーの見解
脳科学者・池谷裕二氏の場合
「脳の地図」は身体が決めるのか?
ただの物体(脳)がどうやって考えるのか?
脳科学者たちの驚くべき空虚な認識論
自由意志と思えているものも、脳の命令に過ぎないのか?
本ブログ主旨の再確認
免疫学者や生命科学者の考え方の隘路
生命現象と意識現象は同一次元で語れるか
教育はDNAにではなく精神に直接働きかける営み
人間の主体はDNAではなく人間のこころ(魂)である
もしDNAが主体であれば、人間は責任をとれなくなる
偶然や間違いの積み重ねでいのちは生まれるのか?
夛田富雄氏の『生命の意味論』に見る問題点
日本の他の科学者たちの考えは?
第二章 人間軽視につながるダーウィン進化論
人間の実像を知るための障害
安直に「神」を語るなかれ!
教科書記述への疑問
生命は自然発生したか
細胞の仕組みの驚異的精緻さ
細胞とは何か
細胞膜、このただならぬ複雑さ
DNAが細胞の核に、四十万分の一に折りたたまれる驚異
細胞の仕組み
生命活動の設計者DNA
DNAが細胞の核に、四十万分の一に折りたたまれる驚異
細胞の組織から見たダーウィン進化論への疑問
ダーウィン進化論に見る問題点
①進化の要因(偶然による突然変異と自然選択)
②化石研究の危うさ
③カンブリア爆発の驚異
④“個体発生は系統発生を繰り返す”は誤り
ネオ・ダーウィニズムの破綻
ネオ・ダーウィニズムとは
ダーウィニストの言葉のまやかし
自然は断絶も飛躍もする
断続並行説は観念論
自己組織化論の飛躍した論理
生命の動的平衡説に欠けるもの
人間軽視を助長するダーウィニズム
インテリジェント・デザイン理論の主張
①マイケル・ベーエの「ID理論」
②鞭毛を働かせる仕組みの複雑さ
③血液凝固にみる生化学的複雑さ
ダーウィン進化論がもたらす闇
第三章 宇宙物理学としての人間原理
第一節 地球、この特権的惑星
天文学の驚くべき到達点
地球は宇宙観測に最適の位置
地球は生命に適した宇宙の場所
生物に適合する光の驚異
水の不思議
第二節 人間原理(恐るべき微調整)
宇宙の造りにみるゆるぎなき恒常性
宇宙の中の生命の条件
知的観測者を生む宇宙の条件
人間原理とは
自然の摂理と宇宙の生成
宇宙論からみた細胞発生の奇跡
人間原理、二とおりの解釈
ホーキングの「安心した気分」とは?
宇宙物理学者、桜井邦朋氏の戸惑い
非コペルニクス的な姿勢
ビックバンが示す超越的次元
第四章 心と脳の関係
矛盾する「脳の機能=心」のとらえ方
脳外科医ペンフールドの問題意識
脳の二つの中心的役割
最高位の脳機構
心は脳から独立している、その実証例
意識の流れの二重性
心が脳をつくり変える
心が脳をつくり変える(パート2)
心が脳をつくり変える(パート3)
「人格」は「脳」であるか?
脳はコンピュータ、心はプログラマー
脳神経作用から心を説明できない実験的根拠
第五章 自己意識(自我・人格)とは何か
心の世界は脳の神経活動とは別次元の世界
意識主体としての自我存在
自我の全一性とその起源
生命とはホーリスティクなもの
人間を超えた上位の「全体」を意識せよ!
シュタイナーの生命観
人間の三つの本質的側面と、「私」という自己意識の奇跡的在り方
自我(私)の役割
シュタイナーの精神科学とは
上巻あとがき
下巻、内容項目(仮)
上巻、主要参考文献
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